[こい、来る う とき] Eng
2011
2011.03.30-04.10
Art Center Ongoing,東京
撮影:若林勇人
「The Hapiness Prince」
幸福な王子の行方
震災が起きて、当事者となった自分が、
なにかをつくるとして、
いつも見ているものや、今までの考えを
これからもまた、変わらず持つことができる内容、あるいは考えの
ものであっただろうか。
と検証する。
金とサファイアでできた、街の中に立っていた像は、
移動の途中のツバメによって、解体され、
苦しい人々に分けあたえられた。
やがて、輝きを失ったその像は、倒れ、捨てられて
南に行きそびれた燕は、その足元で、息絶えた。
青いサファイアの目を失った金の像は、苦しみに満ちた光景を見て、
涙を流すことができなくなり、
運びつかれた翼は、自身を運ぶことができなくなった。
オスカー・ワイルドの有名な童話をここでは一つ、
朗読しています。
なんとも教訓じみた慈悲心に満ちた童話であって、
キリスト教圏の優秀な教育話であると、思う一方で。
人が生まれてきた意味や
ボロボロになった、金の彫刻の、役割について考える。
意味や、物語は人間がことばを持って設定してきたもので
私の彫刻にとっては、オプション、あるいは他の物と変わらず、
要素の一つとしてしか扱っていない。
けれど、私もまた、金でできた像になり得るのか。
いずれは、朽ちて、倒れて、土へ帰る。
あるいは、突然の事象によって、別の分子となる。
目の前の愛する人の安全、自分の必要なもの。欲しいもの。
息をしている間に欲しいもの。
金の王子は幸福ではないんじゃないか。
サファイアの眼球によって、喜びを取り戻した人は、
王子を忘れていったじゃないか。
でも、金でできた像は、倒れ、ゴミ箱に捨てられても、
また、更に解体して、
芯棒と台座の石とを細かく砕いて、
また別の物にすることができる。
それでも、残った原料は、一体どこへ運ばれるのか。
目の前から無くなったとしても、別の土地の、
土の中か。誰かの寝床の下にあるのか。
地上のどこを移動しても、
どこに埋められても。
涙を流すことのなくなった、青い、眼球は、
いつも残されてしまう。
いつでも当事者として、
所有しつづけなくてはならなくなる。
人が、私が、目を奪われるまで、土になるまで、
あるいは、その先の、今よりずっと前まで
後から、前まで。
時空がハリサケル
そのときからその前まで
2011.03.31
利部志穂